2015年11月25日水曜日

売りさばく


Twitterに書こうと思ったけど,ちと長くなったのでこちらに。収入印紙が必要になって,郵便局以外でどこで売ってるかしらべてみたら「収入印紙売りさばき所」と書いてあった。なんかファンキーな名前だなあ,と思ってさらに調べると,「郵便切手類販売所等に関する法律」とか「郵便切手類販売所等に関する省令」の記述がことごとく「売りさばく」になっている,「売る」だけじゃだめなんだろうか?

さらに法律・省令を詳細に読んでみると(ひま人だな)切手は「販売」で印紙は「売りさばく」と使い分けてるように見える。なにか深いわけがあるのだろうか? たとえば上にリンクした郵便切手類販売所等に関する省令」の二条では以下のようになっている。
法第二条及び第十条の規定による郵便切手類を販売し、及び印紙を売りさばく者(以下「郵便切手類販売者」という。)及び印紙の売りさばき人(以下「販売者等」と総称する。)の選定及び郵便切手類の販売又は印紙の売りさばきに関する業務の委託並びに法第十一条及び第十二条の規定による郵便切手類又は印紙の売さばきに関する契約の解除に関する事務は、(以下略)
この文章は悪文の典型のようだが(法律関係だとこういうのがスタイル?)とくに前半が強力にわかりにくい。「印紙を売りさばく者及び印紙の売りさばき人」? で,解読してみると,多分,「“郵便切手類を販売し、及び印紙を売りさばく”者 及び “印紙の売りさばき人”」となるのであろうか,と思う(なんかコンピュータープログラムのスコープルール解析みたいなのが必要だな)。
つまり,郵便切手を含む場合は「販売及び売りさばき」をするのでその行為をする「者」として記述している。それに対して印紙の場合は「売りさばく」に限定されるので「売りさばき人」と名詞化しているのではなかろうか? 

うーむ。で,「売りさばく」で検索してみると,「売り捌く  転売する  たたき売る  投げ売りする  売り飛ばす」が同義語だったりして,なんか「オラオラオラオラー!! はよ買ったらんかい,ワレ!」って売るイメージ。収入印紙にはそぐわない。さらに発見したのは「売りさばく」じゃなくて「売りさばき」で検索すると,なんと,印紙関係のページしか上位にヒットしない。われわれ平均的日本人が思っている「売りさばく」とは別の「売りさばき」が,実は総務省をバックとする一部勢力のあいだで浸透しているのか? だれか舞台裏知りませんか?

2015年7月10日金曜日

Fairytale Physics


Farewell to Reality: How Fairytale Physics Betrays the Search for Scientific Truth (現実乖離:おとぎ話物理学の欺瞞 [ナカムラの仮のタイトル訳です] )という本を読んだ。ざっくり言うと,素粒子物理学は1970年代まで着実に進歩して世界の基本原理を探求し続けてきたが,そのころにいわゆる標準理論が完成してからは失速して,それ以降の主流になった超弦(スーパーストリング)理論は,仮定の上に仮定をかさねた末に実証実験可能な予言をひとつも出しえない「おとぎ話」になってしまった,なにやっとんじゃボケ(ざっくりしすぎだが),という内容だった。そして根拠の薄い仮説のくせに,さも確証があるように,空間が26次元だか11次元だかで,宇宙が10の500乗通り存在して、みたいな話を世間にPRするのはけしからん,と著者は憤慨していた。

ナカムラは超弦理論にはこの著者ほど否定的ではないが,しかし困った状況にあるとは思う。すこし前(と思ったら結構前だった,歳をとると時間がたつのが速いね)に出版された「迷走する物理学」とか「ストリング理論は科学か」とかも同様の主旨であるではあるが,さらに時間がたっても検証可能な理論があらわれず,実験面ではLHCで超対称性に不利な結果がでつつあるなど,事態は悪化している。

これは憂鬱な状況である。18世紀以来、物理の基本原理の探求で30年以上成果がなかったのは初めてではなかろうか? われわれは科学史上例をみない時代を経験しているのかもしれない。物理学の年表をみても、1980年以降の項目の寂しさが目にしみる。自然界の究極理論を求めていた素粒子論の分野は、堂々たる物理学のフラッグシップから、メジャーでではあるがいくつかある重要分野のひとつに後退してしまったように感じる。そしてこのままCERNなどの実験施設で超弦理論に否定的な結果が少しずつ積み重なっていくと、素粒子理論という分野が徐々にメジャーですらない物理学の一分野になってしまうという可能性は否定できない。

もちろん,いま超弦理論をやっている専門家の多くはそう簡単にはあきらめられないだろうから,最後まで可能性をもとめて研究をつづけるだろう。しかし,そういう世代が引退していくと,新しい人材の補給がだんだん先細りになっていくのではなかろうか。自分がいま大学を出たばかりで,あふれんばかりの自信と才能をもっていて,大学院はどの研究室に行こうか,という状況を想像しよう。ひょっとしたら自分の研究者人生をすべてつきこんで,結局なんの結果もでませんでした,という可能性があるのを承知で超弦理論にとびこむのは,かなり覚悟がいる。そして,人生を棒にふってしまう可能性は年々増していっているように思える。

しかし,超弦理論が実は壮大なはずれくじで、別の新理論であっさり解決しました,超弦理論に人生かけたみなさんはご苦労様、it was nice, but now it's gone というのは悲しいシナリオだが、でも,いちばん憂鬱なものではないと思う。いちばん困るのは、実は超弦理論は正解で,そっち方面にしかばね累々の消耗戦をしつづければ最終的に真理にたどりつけたのに、そこに行くまでにひろがる砂漠のあまりの不毛さに,砂漠の向こうに約束の地があることを知らないままで終わる、ということじゃなかろうか。そして、物理学の究極の真理を知ることなく人類がほろびていくというシナリオは悲しい。これからどうなるんでしょうね。

2015年6月23日火曜日

浜松楽器博物館のsystem700

実はナカムラは今学期,浜松にある静岡文化芸術大学で非常勤の授業をやらせてもらっている。なかなか素敵な大学で,学生さんの雰囲気もいいのだが,ひとつ後悔していることがある。それは,授業の日を月曜日に設定してしまったことで,アナログハーミットドルフィンも月曜休みなんですね。さらに,音楽好きにとって浜松といえば楽器博物館なのだが,これも月曜休み。

なので,ずっと行く機会がなかったのだが,先週末から東京→豊田市→浜松とめぐる旅にでて,日曜は浜松泊だったので,ついに行ってきました。噂にはきいていたが,迫力ある展示でめちゃよかった。



世界各国の民族楽器や,いま使われているバイオリンだとかサックスだとかの祖先の展示があって面白かったのだが,電子楽器コーナーに思わず涙ものの展示があった。ローランドシステム700シンセサイザー


なにを隠そうナカムラはまだ紅顔の美少年の高校生だったころ,このマシンを使っていたのだ。いや,これはちょっと誇張で,もちろん当時数百万円もするシンセサイザーを買えるはずもないのだが,ローランドのショールームに入りびたってさわらせてもらっていた。

当時,プログレッシブロックが好きで,理科系の少年だったらかなりの確率でシンセサイザーにハマるのだが,もちろんあこがれはキースエマーソンのモーグIII(当時はムーグと言った)だ。しかしこれは数千万もする雲の上のさらに上の存在。ところが1975年にローランドが同様のマシンを数百万円で発売開始して,これも雲の上にはちがいないのだが,いわば低層雲の上で,ショールームでは実際にさわらせてもらうことができた。

少年ナカムラは通いましたね。まずフロントパネルが写ったA0の大判ポスターをもらってきて部屋に貼り,夜な夜なながめてVCOやらVCFのツマミの配置と使い方をおぼえて,それから阪神電車にのって大阪まで行って実物で音をだしてみるのである。一度いくと二時間ぐらいはねばっていた。

そんなもんで楽器博物館でひさしぶりに実物をみたとき(「お手をふれないでください」だったのでさわれはしなかった),ひとつひとつのツマミやスイッチの使い方をまだおぼえていた。さらにはアナログシーケンサー(写真の中央上部の部分)をつかってそのとき作った簡単なベースラインまで思い出した。いやー,いいもの見せてもらいました。


オマケにほかの展示の写真も。これ,トランペットらしいんだがどうなってるのだろう?



あと,おなじところにあった古いトロンボーンのベルの竜がマヌケ顔でかわゆい。



昔のサックスってキー少なかったのね。



ということで,音楽好きのみなさんは浜松に行ったらぜひ楽器博物館へ。あ,書き忘れたけど,さすがにピアノのコーナーは充実してました。惜しむらくは電子楽器コーナーにミニモーグとクラビネットが欲しかった。モーグIIIは無理としても。


2015年5月1日金曜日

We haven't have such a spirit here since 1985.

ご無沙汰です。

ナカムラには音楽について以前から強く支持する説があって,それは「名曲はほとんどすべて1980中頃以前につくられた」というものである。というか,しばらく忘れてたんだけど,この前,若い友達と晩飯たべながらこの話題になったので,思わず力説してしまった。

いま,30歳以上の人が「いい曲だなあ」と聴くのは,どういう曲だろう? 多くの場合,自分が多感な10代から20代に流行っていた曲だったりするが,それ以外の,リアルタイムでは知らないが気に入っている曲があったとすると,たいてい1980年中頃以前の曲じゃないですか? ショパンとかベートーベンは言うまでもないが,ポップスでもビートルズの Let it be だったり,かぐや姫の神田川だったり,ビリー・ジョエルの Honesty だったりで,90年以降にできたのはほとんどないだろう。もしろん,最近でもいい曲はつくられてはいるんだけど,あ,あの曲ね,と誰もが知ってる,そして誰もがいいと思う曲ってほとんど1980年中頃以前の曲じゃないだろうか?

これは,ひとつには1980年代以降は音楽が細分化してみんながいいと思うジャンルがなくなったというのもあるだろうが,ほかにも1980年代までに現在ある音楽のスタイルがほぼ出尽くしたというのもある気がする。ナカムラの高校時代にパンクロックとレゲエ(はじめは「レガエ」っていったんだよね)がでてきて,そのあと,80年代にラップとかヒップポップがヒットして,だけど,それ以降とくにメジャーなムーブメントはないと思う。(M-baseってどうなったんだと検索してみたら,日本語の解説はみあたらなかったが,スティーブコールマンがまだm-base.comというサイトで頑張ってた。)

思えばナカムラあたりの世代が,「次はどんな音が聴けるのだろう?」と胸をときめかせ,乏しい小遣いを握って,レコード屋(当時)に通った最後ではなかろうか? ELPの「恐怖の頭脳改革」(この日本語タイトルなんとかしてくれ)とかウェーザーリポートの「8:30」とかの発売時は今でもよくおぼえている。しかし今,好きなアーティストが新譜を出したときいても,大体内容は想像できてしまうのではなかろうか。そう考えると, Bitches Brew とかをリアルタイム経験してるひと世代上ってうらやましいですね。でも,いまの若者はわれわれ世代のおじさんがうらやましいのかも知れない。いいだろ。


2015年2月19日木曜日

地球磁場は光子なのか?

さて,また電磁気学の話題です。物理に興味のない人はあしからず(前野さんの宿題もまだだ,すみません)。

ナカムラが学生のころからもっている諸々の疑問のひとつに「地球磁場は光子か?」というのがある。アインシュタインが提唱した光量子説から量子力学が発展して,プランク分布がどうの,というのは,この話題に興味のあるかたはとっくにご存知と思うので省略するが,量子電磁気学によると,いまわれわれが電磁場と思っているものは,実は量子化された光子という実体で説明される,ということになっている。

そして,電磁場のうちの電場については,クーロン場の量子化がなにやら難しくて,仮想光子がどうのこうのという話になるのだが,磁場については全部光子でおっけ,というような雰囲気がある。雰囲気,と書いたのは,ナカムラの手元およびネット上でみた文献には,はっきりとそうとは書いてないのがほとんどだからだ。Wikipedia英語版のvirtual particleの項目には双極子磁場の磁力も仮想光子が運ぶと書いてあるが,本当かなあ。

考えるに,地球磁場みたいな双極子磁場は,イメージとしてなんか粒子っぽくない。twitterでこの疑問を書いたら,地磁気の専門家からも,光子じゃない印象,という返信をいただいた。やっぱり現場の感覚としてはそんな気がする。

そもそも時間変化していないので,光子一個分のエネルギーとされるhνはゼロなのに,地球磁場は厳然として巨大なエネルギーをもっている。hν→0の極限で粒子数が無限大になるから有限のエネルギーをもっているのだろうか,と学生のころは漠然と考えていたが,最近,電磁場の解析力学をいろいろと勉強しているうちに,やっぱり地球磁場は光子じゃないんじゃなかろうか,と考えるようになってきた。「光子じゃない」というのは,一個,二個と数えられる存在ではないという意味である。

ところが,いわゆる調和振動子に分解するという計算をしてみると光子じゃないっぽいのだが,遅延ポテンシャルで考えてみると伝搬性のイメージになったりして,よくわからん,ということになった。で,ちょっと長くなるので次の記事に考えたことをまとめたのだが,ナカムラは量子力学,とくに場の量子論については門外漢なので,これを読まれた識者のご意見をうかがいたい。電場のクーロンポテンシャルと仮想光子についても,思うところがあるのだが,まだ頭の中が整理されてないので,それについてはのちほど。

地球磁場は光子ではない?

前の記事で書いた疑問の,自分なりに考えた内容です。味気ない論文調で失礼。識者のご教示をおねがいします。(数式はスマートフォン・タブレット版では見えません。「PC用のサイトをみる」などのオプションを選択してください。)

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まず,古典場を考える。本稿では特に断らない限り,記号は習慣的な意味をもつ($A_{\mu}$:4元ポテンシャルなど)。また,単位系は適当にとって,$4\pi c$やら$\mu_{0}$やらがでてこないようにしてある。詳しい計算はいちばん下にある参考文献をみてください。

以下ではローレンツゲージ$\partial_{\mu}A^{\mu}=0$を使う。電磁場の作用$I$ は
\begin{align*}
I & =\int d^{4}x\,\left(-\frac{1}{4}F_{\mu\nu}F^{\mu\nu}+A_{\mu}J^{\mu}\right)\nonumber \\
\, & =\int d^{4}x\,\left(-\frac{1}{2}\partial_{\mu}A_{\nu}\partial^{\mu}A^{\nu}+\frac{1}{2}\partial_{\mu}A_{\nu}\partial^{\nu}A^{\mu}+A_{\mu}J^{\mu}\right)\,,
\end{align*}
で与えられる。部分積分により$\int d^{4}x\:\partial_{\mu}A_{\nu}\partial^{\nu}A^{\mu}=\int d^{4}x\:(\partial_{\mu}A^{\mu})^{2}$となるが,これはローレンツゲージの条件からゼロとなるので,ラグランジアン$L$は
\begin{equation}
L=\int d^{3}x\,\left(-\frac{1}{2}\partial_{\mu}A^{\nu}\partial^{\mu}A^{\nu}+A_{\mu}J^{\mu}\right)\,,\label{eq:lagrange}
\end{equation}
と書ける。

ここで,この手の計算でよくやるように偏極単位ベクトル$\epsilon_{\lambda}^{\mu}(\mathbf{k})$を導入する。添字$\lambda=1,2$は波数ベクトル$\mathbf{k}$に対して「横方向」を$\lambda=3$は「縦方向」を意味し,$\lambda=0$は時間方向である。これを使って4元ポテンシャル$A_{\mu}$および電流$J^{\mu}$を以下のように展開する。
\begin{align*}
A_{\mu}(t,\mathbf{x}) & =\int\frac{dk^{3}}{(2\pi)^{3}}\sum_{\lambda=0}^{3}\epsilon_{\mu\lambda}(\mathbf{k})c_{\lambda}(t;\mathbf{k})e^{ic\mathbf{k}\mathbf{x}}\,,\\
J^{\mu}(t,\mathbf{x}) & =\int\frac{dk^{3}}{(2\pi)^{3}}\sum_{\lambda=0}^{3}\epsilon_{\lambda}^{\mu}(\mathbf{k})\chi_{\lambda}(t;\mathbf{k})e^{ic\mathbf{k}\mathbf{x}}\,.
\end{align*}
この展開では,普通やるように生成消滅演算子をつかわずに,ナマのフーリエ成分$c_{\lambda}(t;\mathbf{k})$を使い,時間$t$への依存は変換せずにそのままにしてある。この変換をもとに(\ref{eq:lagrange})のラグランジアンからハミルトニアンを計算すると
\[
H=\frac{1}{2}\sum_{\mathbf{k}}\left[-\left(\dot{c}_{0}^{2}+k^{2}c_{0}^{2}-2c_{0}\chi_{0}\right)+\sum_{i=1}^{3}\left(\dot{c}_{i}^{2}+k^{2}c_{i}^{2}-2c_{i}\chi_{i}\right)\right]\,,
\]
となる。ただし,$\partial c_{\mu}/\partial t=\dot{c}_{\mu}$と書いた。

以下では,ソースタームが時間によらないとしよう($\dot{\chi}=0$)。 新しい変数$\xi_i=c_i-\chi_i/k^{2}$を導入すると,横成分($i=1,2$)に対応するハミルトニアンは以下のように書ける。
\[
H_{i}=\frac{1}{2}\sum_{\mathbf{k}}\left(\dot{\xi}^{2}_{i}+k^{2}\xi_{i}^{2}+\frac{\chi_i^{2}}{k^{2}}\right)\,.
\]
括弧のなかの第3項は,定常電流がつくる,いわゆる「near field」の寄与で時間依存はない。この項が磁場成分しかもたないことは,直接計算から示すことができ,双極子磁場などの定常時場がこれに相当することがわかる。このハミルトニアンから,力学変数$\xi_i$は$c_i$のゼロ点を$\chi_i/k^{2}$だけ移動した調和振動子であることがわかる。

ここまでの話は古典場であったが,これを交換関係$[\dot{\xi_i},\xi_i]=i$(これは$[\dot{c_i},c_i]=i$と等価である)を使って量子化しよう。量子化の標準的手順によって,生成消滅演算子$\hat{a}_i^{(\pm)}=(2k)^{-1}(\dot{\xi_i}\pm i|\mathbf{k}|\xi_i)$を導入すると,モード$k$の粒子が$n_k$個ある状態$\left|n_{k}\right\rangle $の横成分のエネルギーは
\[
\hat{H}_{i}\left|n_{k}\right\rangle =\left[\omega\left(n_{k}+\frac{1}{2}\right)+\frac{\chi_i^{2}}{2 k^{2}}\right]\left|n_{k}\right\rangle \,,
\]
と計算できる($\omega=|\mathbf{k}|$と書いた)。

これから,横成分の電磁場のエネルギーは$\omega(n_{k}+\frac{1}{2})$と$\chi_i^{2}/2 k^{2}$の2つの部分からなることがわかる。はじめの部分は光子で,これは間隔$\omega$の離散的な値をとる。この値が光子の数と比例すると解釈して一個,二個と数えることができるとするのが「量子」つまり量子化による粒子像である。二番目の部分は磁場のみからなる「near field」の寄与で,これは電流の値が連続的であれば連続的な値をとる。そういう意味でこの部分は「量子」ではない。

(しかし,上式のように分解するのは,数学計算上の便法的な部分がある気もする。物理的実体としては遅延ポテンシャルみたいなものが適当だと思うが,その場合は光子の概念はどうなるのだろう?)

参考文献
量子場の理論入門(「いろぶつ」こと琉球大学前野さんの講義録)
電磁場の量子化(「物理のページ」から)

2015年1月20日火曜日

分極ベクトルは必要か?

さて,前回のページで電場Eと電束密度Dの関係についてちょっとふれたら,さっそく前野さんからtwitterでつっこみがあって(注)で,近日中にもっと書きます,と返事をしたら,まだ宿題があるとの指摘が帰ってきた。あたたたっ,そういえば,去年に解析力学について書いたときに,前野さんのコメントに返事するといいながら,ころっとわすれてました。

実は前野さんにいただいたコメントに関してはナカムラの記述は間違いまくっており,しかしそれを正すうちに面白いことを見つけてそれを書かねば,などとやってるうちに時がすぎてしまいました。そして,さらに恐ろしいことに,そのとき考えた面白いことが,微妙に忘却の彼方にいってしまって,ああどうしよう,となっているのだが,とりあえずED問題について解説を書いたので今回はそれをご紹介します。ここを参考にMathJaxを使って数式を書いてるので,モバイル端末とかだと数式でないかも。

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教科書などで電場Eと電束密度Dの関係を説明するときに、ほとんどの場合分子分極をもちだして、電流なり電荷なりを分極部分とそれ以外にわけて、という手順をふむ。こういうのを読むと、分極とそれ以外という区別は物理的になにか本質をついたものであり、電束密度Dも物理的実体であるかのようにな気分になる。それに対して,いくつかの教科書(代表はファインマン物理)では電束密度Dというのは計算を簡単にする数学的な補助場で,本質的なものはEひとつであるという立場で説明してある。しかし,ファインマンでも分極ベクトルPというものは使っていて,これを分子分極から導出している。

本当に分極ベクトルPというのは必要なのか? 実は分子分極とはまったく関係なくても分極電流というものを定義できる場合もある。たとえば(とかいいながら実はこの例しか知らないのだが)磁場中の無衝突プラズマを伝わる磁気流体波(MHD波)については、荷電粒子の磁場中の旋回運動から生じる電流のために、近似として媒質中のマックスウェル方程式と同じ形の方程式(磁場方向による非等方性はある)で記述することができ,アルフベン波という分散性のない電磁波がみちびかれる。この場合,分極電流はちゃんと存在するが,分極ベクトルPに対応する明確な物理的実体は存在しない。つまり分極ベクトルなしでも媒質中のマックスウェル方程式が書けるわけだ。

以下では,電場Eから分極ベクトルPを使わずに電束密度Dを定義しよう。まず,ファインマンと同じく,物理的な基本量は電場Eのみという立場をとる。自然単位系を使って,cとか4πとかμとかがでてこないようにすると,真空中のマックスウェル方程式のDはEでおきかえられる。ディメンジョンがちがうと思われるかもしれないが,普遍的な物理定数として適当なディメンジョンをもった比例係数があると考えればいい(このへんについては,実はもうすこし詳しい説明が必要かも)。

媒質の中を電磁波が伝搬しているような状況を考える。電磁波の電場が媒質の電荷に作用すると、その電荷に力がかかるので、なんらかの運動が生じる。で、この運動は電流になるわけだが、これをJと書こう。簡単のためこれ以外の電流はないとする。このJは電場Eが決まれば決まるわけだが、一般には過去の電場の値も影響したりするのでJ(E)のような単純な関数の形には書けない。

しかし、特殊な場合として、Jが電場の微分だけの関数としてJ(dE/dt)のように近似できるときもあるかもしれない、というか実際によくあってそれが誘電体なのだが。さらに電場があまり強くないときは線形の近似ができたりするとラッキーで、その場合は比例定数χを使ってJ=χ(dE/dt)とかける。これをアンペールの式に入れると、
$$
\nabla\times\mathbf{H}=\mathbf{J}+\frac{\partial}{\partial t}\mathbf{E}=\frac{\partial}{\partial t}\left(\chi+1\right)\mathbf{E}
$$
 となるが、ここで(χ+1)E=Dと書くと、Jを意識せずに真空中のマックスウェル方程式と同じような形になってすっきりする。以上の議論にPは使っていない。

ここまではなぜJ=χ(dE/dt)と書けるかは問わずに、書けたらラッキー、ということだったが、そのへんにある誘電体のミクロな物理を調べてみると分子分極の場PからDが導出できて、Pにもそれなりに意味があるということになるわけだ。しかしPは一般的には必要ではなく,これに対応する物理的実態が存在しなくても、J=χ(dE/dt)と書けさえすれば、媒質中の電磁場方程式はマックスウェル方程式と同じ形に書くことができる。

では、divDで与えられる真電荷とはなんだろうか? これも「もしJ=χ(dE/dt)と近似できればラッキー」という立場からすると、J=χ(dE/dt)と近似できなかったのこりの部分がつくる電荷と考えればいいと思う。分極電荷以外の自由に動ける電荷とか,マクロに平均するとどうこうとかいう定義は、実は定義でなく、近似できずにのこった部分を調べてみるとたまたまそうなっているというような性質だと思えば気が楽になる。

****

…と愚考するのですが,どうでしょう? 磁場についてもdE/dtのかわりに∇×Bを使えば同じ議論ができると思います。

(注)今回のタイトルを「ED問題」にするという誘惑にかろうじて勝った。引き返す勇気をほめて欲しい。

2015年1月17日土曜日

縦の平均と横の平均

数理系のひとなら「ド・モアブルの公式」というのを名前くらいは知っていると思う(注1)。ド・モアブルというのはフランス生まれでイギリスで活動した数学者なのだが,ニュートンの友達だったそうな。かの有名なプリンキピアを書いたときにニュートンが原稿を彼に見せたところ,一晩で読んで「興奮のあまり死んでしまわなかったのは運が良かったとしかいいようがない」と感動したという逸話を読んだことがある。

この話を読んだ時に心底うらやましいと思った。いま,自然科学分野で研究者をしているみなさん,興奮のあまり死んでしまいそうな研究にふれた経験ありますか? ナカムラは残念ながらそんな経験はない。せいぜい「ああ,面白いことを考えてるな」程度である。まあ,プリンキピアは,それで世界が変わるような出来事なので,それをはじめて読むような経験はおいそれとはないかもしれないが,それよりは小規模でも血湧き肉躍るような科学上の事件というものの目撃者(当事者なれたらもっといいが)になりたいものである。

で,過去をふりかえって,一番興奮した経験というのを考えるに,それは自分の専門のプラズマ物理ではなく,のちに「電磁気学を考える」という本になる内容の,今井功先生のセミナーを聴いた時である。このときナカムラはまだ大学院生で,同じキャンパスでおこなわれる他分野のセミナーなどにちょくちょく顔を出していたのであるが,そんななかの流体力学研究室のセミナーにたまたま顔を出してこの話を聴いたのである。ちなみに今井先生は10年ほど前に亡くなられた(1973年にでた「流体力学」の後編,でませんでしたね)ので,現実にお目にかかったのはことときだけだ。

なにに感動したかというと,電場・磁場があった場合のエネルギーと運動量を基本にすると,電磁気学のすべてが綺麗に導出されるという,普通の電磁気学とはまったく違った理論構成である。多分,神が電磁気学を設計なさったときはこう考えたに違いない,とそのときは思った。のちに相対論と微分形式を勉強して,ちょっと考えが修正されたが,基本的な評価はいまもかわってない。上述の本はもう絶版になって久しいが,もし,手に取る機会があったらぜひマックスウェル方程式を導出するところだけでも読んで欲しい。

さらに感心したのは,電場Eと電束密度Dの関係である。これはだれしも電磁気学を学ぶときに頭を悩ませる問題で,電磁気学を頻繁に使う研究分野にいても,イマイチ納得していないという研究者もいるはずだ。いや,過去にはすくなくとも一人はいた。ナカムラである(注2)。

今井電磁気学ではマックスウェル方程式を積分形で考える。するとEは線積分の対象であり,Dは面積分の対象なので,ミクロにごちゃごちゃした構造のあるEなりDなりを平均して,マクロでなめらかな値をだすときに,それぞれ線績分と面積分を使って平均してやらなくてはならない。今井電磁気学では,これを「縦の平均」,「横の平均」といって区別する。その平均の仕方の違いによって値は違ってきていいわけで,それがEとDの違いの本質なわけである。磁場Hと磁束密度Bの関係も同じだ。

これは納得,というのでナカムラは気に入っていたわけだが,のちにアブラハム・ミンコフスキー論争というのを知って,この「縦・横の平均」の考え方を使って,これが解決できるに違いないと考えた。アブラハム・ミンコフスキー論争とは,媒質中の電磁場の運動量がE×HなのかD×Bなのか,という問題で,なんと驚くなかれ,論争発生後一世紀以上たった現在でも,まだ未解決問題とされている(もうとっくに解決してるという意見もある。ちなみに解説はこれ,英語だけど)。

今井電磁気学の観点からこれをみると,運動量というのをマクロに定義するときの平均方法の違いが論争の原因で,そこを考慮してやれば…,考慮してやればその違いで…,あれ,うまくいかない! 実はナカムラは数年前,今井電磁気学の応用でこの一世紀来の難問を解決しちゃる,と意気込んで計算したのだが,どうしてもうまくいかなかった。

結局,なにがおかしかったかというと,縦・横の平均の違いでEとDの違いを説明するという話自体が間違っていたのである。実際計算してみると,普通に性質のいいランダムさをもったミクロな構造を平均すれば,縦でも横でも,つまり線積分をつかっても面積分をつかっても,同じ値になるということで決着した。生前に今井先生に会ったことのある友人にきくと,本人もあとになってこのことには気づいていたらしい。

げげ,だまされた,トマス・ヘンリー・ハックスレイの言う「つまらなく些細な事実によって葬り去られる美しい理論」というわけだが,それでも,ナカムラにとって今井電磁気学の魅力はいささかも色あせない。実は,ほかにも今井電磁気学の中には間違いがあって,一部ではトンデモ扱いする物理学者もいる。しかし,いくら間違いがあってもその考え方が奥深い理論というのは,チャラくて正しいものより,はるかに魅力的なものであろう。

このページはtwitterで電磁気学の話題がでたときに,今井電磁気学にふれたのがきっかけで書いたのだが,そのときにナカムラが投稿したtweet(これ)を転載しておく。
マイルス・デイビスがウエストコースト派のミュージシャンを評して「あいつらは演奏能力も音楽性もすばらしい。でもおれが気に入らないのは,あいつらが演奏中間違えないところだ。間違えないということは音楽をクリエイトしていないってことだ」と言ったそうな。今井電磁気学を読むとこれを思い出す。
(注1)このページを書くために調べるまで,ナカムラが「ド・モルガンの法則」と混同しておったのは内緒だ。
(注2)今は実は納得している考え方がある。次回,このblogに書く予定である。

2015年1月13日火曜日

Steppin' to the Bad Side

あなたに,めちゃくちゃ好きな異性ができてしまって,むこうもまんざらでもない感じ,ところが相手にはすでに配偶者がいて,去年はやった「昼顔」のような状況になったとしよう。あるいはこの曲とか。で,密会をつづけるうちに,ある日,相手が「絶対ばれない方法があるんだけどあいつ(配偶者)を殺してくれない?」と言ったら,どうします?

まあ,これはひとによりけり,あるいはどれくらい相手に入れこんでるかという状況にもよるだろうけど,どうしてもゆずれない自分の強烈な欲望があって,それが著しく道徳に反する場合,どうするかっていうのは難しい問題だと思う。死ぬほど愛していて,彼もしくは彼女なしの人生なんて生けるシカバネ同然というような場合はどうするだろう?

いや,実は昨今の科学捏造疑惑に関連して,この記事を読んでこんなことを考えたのであるが,自分が生命科学分野の研究者の卵,あるいはカケダシの研究者で,研究者として生き残るためにどうしても捏造をせざるを得ない状況にあったらどうするだろう,と思った次第である。生命科学のような研究分野の魅力は抗いがたい(注)ものがあり,研究を一生続けることができるのと,それをあきらめてさほど好きでない全く別の仕事に就職するのは,人生の楽しさがまったくちがってくるのではないかと思う。

実際,ナカムラは幸いにもそのような分野のひとつである物理の研究職こつくとができたが,そうでない人生を想像するとぞっとする。自分の好きな研究を自由にできるって,本当に幸せなことです。とくに過去をふりかえると結構あぶなくて,30過ぎて一時無職だったりしたことがあるから切実。もちろん,研究以外の人生だって,それなりに楽しいことはあるはずだが,それと研究を愛することはまた別問題。不倫はいかんということで,好きな異性とわかれてもそのうち立ち直れるというのと,その相手がめちゃくちゃ好きというのが別問題だというのと同じだ。

幸いなことにナカムラの嗜好は物理の理論的な仕事だったので,捏造したくてもする余地がない。論文に計算が全部書いてあるので,だれでもあとを追って確かめられるのだ。そして確かめた結果,計算間違いしとるやんけ,というのはたまにあるが,いや,実は頻繁にあるが(涙),しかし,よこしまな心の入り込む余地はない。身の潔白を簡単に主張できるわけだ。よかった。

ところが,もし,ひとりで実験していて,これがうまく行かないと業界で生き残ってはいけない,みたいな状況に追い込まれたらどうだろう。いや,「いかに不利でも私は悪魔の誘惑には負けない!」という個人の決断ができる場合はまだいいが,研究室のボスが水戸黄門か大江戸捜査網に出てくる悪代官みたいなやつで,「おぬしも,ここで生きていきたいなら,わかっておるじゃろうな?死してシカバネ拾う者なし,ふっふっふ」みたいに言外に捏造を指示してきたら?

ノーと言えば確実に将来はないし,研究室の先輩も,そこを上手くやってボスの紹介でどこかの大学の研究職についてるし,とかいう場合はこの判断はなかなかキビしい。さらに,業界の常識である程度は「色をつける」のが暗黙の了解になっていて,どこまでグレーゾーンかわからなくなっているような状況だと,思わず手を染めてしまう誘惑は大きなものだろう。自分の正義に従って研究をはなれ,砂をかむような味気ない人生を送るか,steppin' to the bad sideで研究者になって禁断の甘い蜜をなめるか。あなたならどうします?

自分だったらどうするんだろうなあ,と考えると,結論は「あー,そういう業界じゃなくてよかった!」

(注)ところで,まったく本題と関係ないが,ナカムラはこの文章をかくまで「抗いがたい」というのを「あがらいがたい」と読んでいた。変換できないから気がついた。日々これ勉強ですね。