2011年6月5日日曜日

不愉快

3月11日以来,原発事故にからんで,ネット上を主としていろいろな言説をみてきた。で,ずっと不愉快に思うことがあるのだが,それは,原発推進派にも反対派にも,相手陣営に対して「気が狂ってるとしか思えない」とか「白痴化している」とか,相手の意見を全面否定するような表現で切り捨てる言説が散見されることだ。もちろん,すべての推進派・反対派そうだというわけではなく,そういうのは多分少数派なのかもしれないが,無視できない一定数いることは事実だと思う。

そもそも,「気が狂ってる」とか「白痴」とかいう言葉を,こういう具合に使うこと自体不愉快だが,それはおいといて,なぜ,自分と違う意見に対してそうも過激な言葉が使えるのだろうか。前にも書いたが,ナカムラは原発に関しては「ソフトランディングで時間をかけて廃止」という意見だが,それ以外の道を検討することが「気が狂ってる」とは思えない。安全対策の努力をしながら,それでもある一定のリスクをひきうける覚悟で原発を使い続けるのも,ある意味では合理的な判断だと思うし,逆に危険性を最大限避けるために,人的被害を含む多大なコストをかけても即時停止,というのだってあり得ると思う。そもそも,こういう問題に対して唯一排他的に正しい答えがあると思うのが間違いじゃなかろうか。

その判断には,たとえば,原発のコストとか安全性とか,あるいは代替エネルギーの実現可能性だとか,いろいろと不確定な判断材料があり,それを総合的に分析して,最終的にはなんらかの責任ある決断をしなければならないのだが,そのときに,相手の言う意見を「気が狂ってる」で切り捨ててはいかんだろうと思う。そういう言い方をする人間は,自分が正しく,しかも自分のみがつねに正しいという確信にこり固まっているので,ひょっとしたら相手の意見も検討に値するのでは,という想像力を働かせてみることができないのだろうか。相手の意見がまっとうで,自分のほうが修正すべき,などとは夢にも思わないに違いない。

しかし,現実に推進派と反対派という相反する意見があるわけで,つまり理論的に言って両方が排他的に正しいということはありえないわけで,お互いに相手を「気が狂ってる」と言っている間は,なにも話はすすまない。極めて不愉快なことである。気が狂ってるとしか思えない。