2011年8月5日金曜日

くだらない人生の贅沢

昨日,こども手当が廃止になるというニュースがあり,また,原発事故の話題も「子供の命を守る」というのが,大きな争点だったりして,立場の違いこそあれ,子供を大切にしたいというのは現在日本のマジョリティーの意見であろう。先日も小学校低学年のお子さんをもつ親と雑談をしていたら,「福井にいると放射線の影響などないとわかっているけど,子供の寝顔をみてると『ひょっとしたら』と不安になる」というようなことを言われてた。その心情はよくわかる気がする。

で,親が子供の幸せを願うのは素晴らしいことだし,そういう親が子供にできるかぎりのことをしてやりたいというのは当然だと思うが,これが「あなたには最高の教育と理想の家庭環境を与えたのだから、それに応えて最高の人間になってちょうだい」という話になると、子供にとってはちょっとしんどいなあ、と感じるのではなかろうか。とくに、「最高の人間」というのが、いわゆる世間的に「偉い」人、たとえば、「いい」大学を出て「一流の」会社に勤め、「エリート」としての人生を、という感じになるとちと困る。もちろん、理想の家庭で最高の教育をうけた子供が,親の期待に沿ってエリートになって、理想の配偶者と出会い、素晴らしい家庭をもち、さらにエリートの再生産をしていく、というのであれば、それはそれでハッピーである、ちょっとムカつくが。

しかし、世の中、そううまくいくもんでもない、運だとか才能だとかの問題で、誰でもエリートになれるわけではなく、往々にしてどっかでつまづくものである。そのときに、親が「そんなくだらない人間にするために,お前に最高の教育を与えたんじゃない」みたいな話になると困ったことになる。子供の方がそれなりに反抗心があって、「パパもママも、僕を愛してるんじゃなくて、僕を愛してると思ってる自分を愛してるだけだ! 僕は自分の人生を自分の生きたいように人生を生きる、くだらない人間上等じゃないか!」というくらいならばいいが、不幸なのは、子供のほうも両親の価値観をそのまま受け継いでしまって、「ああ、こんなに愛されて最高の教育を受けたのに、俺はなんて最低なやつだ」とかいう感じで自分を攻めることになってしまった場合だ。

そうなると、鬱+引きこもり路線まっしぐらになって、親も子供もとんでもない不幸を味わうことになるだろう。思うに、親が子供を思うのは、最終的には子供の幸福を願うことであり、偉い人になってエリート路線を歩むのはその手段にすぎない。しかし、往々にしてあるように、手段と目的が混同してしまって、なにがなんでもエリートにならなければみたいな話になるとしんどいなあ、と思う。理想の家庭に生まれ、最高の教育をうけて、最低にくだらない人生を送る自由もあっていいのではないか。ある意味でとっても贅沢な人生である。そして,それを認める親が最高の親だ。死ぬときに、「俺の人生は人様からみたら、たいしたことないくだらないものだったが、でも幸せだったよな」と思えるのも素敵な人生で、親も本当はそういうのを望むべきだろう。

2011年6月5日日曜日

不愉快

3月11日以来,原発事故にからんで,ネット上を主としていろいろな言説をみてきた。で,ずっと不愉快に思うことがあるのだが,それは,原発推進派にも反対派にも,相手陣営に対して「気が狂ってるとしか思えない」とか「白痴化している」とか,相手の意見を全面否定するような表現で切り捨てる言説が散見されることだ。もちろん,すべての推進派・反対派そうだというわけではなく,そういうのは多分少数派なのかもしれないが,無視できない一定数いることは事実だと思う。

そもそも,「気が狂ってる」とか「白痴」とかいう言葉を,こういう具合に使うこと自体不愉快だが,それはおいといて,なぜ,自分と違う意見に対してそうも過激な言葉が使えるのだろうか。前にも書いたが,ナカムラは原発に関しては「ソフトランディングで時間をかけて廃止」という意見だが,それ以外の道を検討することが「気が狂ってる」とは思えない。安全対策の努力をしながら,それでもある一定のリスクをひきうける覚悟で原発を使い続けるのも,ある意味では合理的な判断だと思うし,逆に危険性を最大限避けるために,人的被害を含む多大なコストをかけても即時停止,というのだってあり得ると思う。そもそも,こういう問題に対して唯一排他的に正しい答えがあると思うのが間違いじゃなかろうか。

その判断には,たとえば,原発のコストとか安全性とか,あるいは代替エネルギーの実現可能性だとか,いろいろと不確定な判断材料があり,それを総合的に分析して,最終的にはなんらかの責任ある決断をしなければならないのだが,そのときに,相手の言う意見を「気が狂ってる」で切り捨ててはいかんだろうと思う。そういう言い方をする人間は,自分が正しく,しかも自分のみがつねに正しいという確信にこり固まっているので,ひょっとしたら相手の意見も検討に値するのでは,という想像力を働かせてみることができないのだろうか。相手の意見がまっとうで,自分のほうが修正すべき,などとは夢にも思わないに違いない。

しかし,現実に推進派と反対派という相反する意見があるわけで,つまり理論的に言って両方が排他的に正しいということはありえないわけで,お互いに相手を「気が狂ってる」と言っている間は,なにも話はすすまない。極めて不愉快なことである。気が狂ってるとしか思えない。

2011年5月11日水曜日

VAIO-X+ubuntu 10.10でWiMAX

職場にも自宅にもwimaxのサービスが来てることを知って,Ubuntu 10.10でVAIO-Xの内蔵wimaxを使おうとしらべたのですが,日本語のドキュメントが見つからなかったので,英語サイト等を参考にしました。(こんな英語以外 [何語かわからん] のページもなんとなく参考になりますね。) 日本語でドキュメントをのこしておくと,それなりに役に立つかも。(多分,自分が11.04にバージョンアップしたときにね。) 実際の作業が終わったあとに記憶にたよって書いているので,間違いがあるかもしれません。

  • ifconfig wmx0とやるとそれなりの答えを返してくるので,driverとfirmwareはとってくる必要がない。
  • 基本的にはlinuxwimax.orgのダウンロードページからwimax toolsとwimax network serviceをとってきて./configure; make ; sudo make install。そのときにパッチをあてたopen source supplicatが必要になる。
  • libssl-devとlibnl-devが必要なのでapt-getしておく(ほかにもないものがあるかも)。
  • こことかここを参考にwimax toolsとwimax network serviceをコンパイル+インストール。
- wimax-tools:
$ tar xf wimax-tools-1.4.4.tar.gz
$ cd wimax-tools-1.4.4
$ ./configure
$ make
$ sudo make install

- open source supplicant:
open source supplicantをビルドするにはwpa-supplicantにパッチをあててコンパイルが必要。wpa-supplicantはhttp://hostap.epitest.fi/から,パッチは http://linuxwimax.org/Download からとってくる。
$ tar xf wpa_supplicant-0.7.2.tar.gz
$ cd wpa_supplicant-0.7.2
$ patch -p1 < PATH/wpa_supplicant-0.7.2-generate-libeap-peer.patch
$ make -C src/eap_peer
$ sudo make -C src/eap_peer install
$ sudo ldconfig

- WiMAX network service
$ tar xf wimax-1.5.1.tar.gz
$ cd wimax-1.5.1
$ ./configure
$ make
$ sudo make install
使うにはsudo wimaxd -b -i wmx0でデーモンを走らせて,ユーティリティwimaxcuで各種操作。詳しくはmanページを参照。




5/16追記

その後,一日プランでWiMAXにつなごうとしたところ,最終段階で「これから、WiMAX接続機器に各種情報を書き込みます。1~2分程度かかりますので、そのままお待ちください。」というメッセージがでてきてから,先に進まなくなった。ここと同じ症状。いまのところ,すぐにWiMAXを使うことはないので,放置状態です。解決したら報告します。というか,だれか解決策わかったら教えてください。

2011年4月25日月曜日

かけざん(2): 前回から時間たっちゃった。

前回書いた「かけ算問題」をシリーズものにするつもりだったが,他のネタを書いているうちに時間がすぎてしまいました。全国のかけ算ファンのみなさま,お待たせしました(?)。さて,もう,大分前の話になったが,前回の記事について,あらきさんがそれに的確なコメントをくれた。
つまり子供がことばを覚えるときに、 現実の中に「言葉で表現できるもの」がいっぱいあって、 その中に「うまく数値で表現できるもの」いっぱいあって、 その数値で表現できるものの中には 「数の四則演算のルールに則って処理していい組み合わせ」あるし、そうでないものいっぱいある
ナカムラが言いたかったことは,まさにこれで,それをこんだけコンサイスにまとめてもらえば,もう続編を書く必要もなし,これにて終了,ちゃんちゃん。

…というので終わるのもありだが,実は前回の時点でかなり書いてあった部分もあり,また,あとからいろいろと考えることもあったので,蛇足ながら数と現実の関係についてもう少し書いてみよう。全部書くとかなり長くなるので,少しずつ小出しに。

まず,実数と整数について。われわれは学校で,先にいち,に,さんと数えられるもの,たとえば人だとかりんごだとかの数,を習って,つぎにその掛け算や足し算を習い,つぎに,そのような数えられる数(整数)で表されないもの,たとえば,りんごの重さや人の身長,を少数や分数であらわすことを習う。そして整数の拡張として実数を導入し,これさえあれば(複素数とかベクトルとかを使う一部マニアをのぞいて)おっけー,整数は実数の一部,とならう。(有理数と無理数の違いとかも習うけど,覚えてるひと少ないですよね。ここでは,気にしないことにしましょう。)

これは本当だろうか? いや,本当といえば本当なんだが,別の考え方もできるんじゃないか? つまり,整数と実数は別の種類の現象をあらわすためのまったく別のもので,われわれは実数のなかのごく一部のきりのいい数 --- 1とか2とか --- を整数と混同しているだけ,と考えることもできる。考えてみれば,現実のある現象なり物体なりが,あるときには整数で,あるときには実数であらわされるということは,まずない。そして,多くの場合,整数は,ある現象に対する数が一意に決まるのに対し,実数は測定の基準となる単位によって対応する値が違ってくるのが普通である。たとえば,部屋にいる人間の数が5人というとき,それはだれがどういう方法で数えても,「5」という値は揺るぎない。それに対して,その5人の体重の合計が340.2kgというとき,その340.2という数はキログラムを単位としており,ポンドとか匁とかでいうと別の値になる。つまり,実数であらわされる数の多くは,ある基準となる量 --- たとえば重さの場合はキログラム原器の重さ --- の何倍か,という方法で値を決めているので,ちがう基準量ではかれば,違う数になるのである。また,実数の場合は必ず原理的に誤差をともなうのに対し,整数では正確に数える手段さえあれば,原理的には誤差をなくすることができる。

さらに,そういう具合に,別の実体をあらわす整数と実数を別ものだと考えるとすると,実は整数や実数の中でもいろいろ違うものがでてくる。たとえば,前回にちょっとでてきた月の名前は,なんとなく整数だと思っているが,実は12までしかない数なので,大手をふって整数というのは,ちとはばかられる。ゼロ以上の整数を自然数といって区別するなら,1から12までしかない整数も「月数」とかなんとか,別の言葉であらわしていいのではなかろうか。さらに,この「月数」は演算において,われわれの知っている整数とは著しく違った振る舞いをする。まず掛け算は受け付けない。さらに月数同士の足し算もありえない。あるのは月数+整数という演算で,つまり3月の4ヶ月後は7月,とかいうのを足し算であらわすわけだ。さらにさらに,この演算では3(月)+4(ヶ月)=7(月)だが,7(月)+8(ヶ月)=3(月)という具合に,普通の整数の足し算とはまったく違った挙動をしめす。

このへんの事情が顕著にあらわれるのは英語をはじめとするヨーロッパ系言語で,月の名前を数字でなく,January,Februaryなどという,専用の単語であらわす。つまり,普通の数ではない月を示す特別の単語群があり,それと整数の間で足し算が定義されていて,結果は月を表す単語になるのである。蛇足になるが,perlなどのアメリカ製のプログラム言語のライブラリでは,整数型で月をあらわしており,Jan=0,Feb=1,などと定義されているものがある。アメリカ人にはJanuaryが1に対応するという感覚はないようだ。

そういうわれわれ日本人だって,曜日は月,火,水という専用の単語であつかっており,月曜の三日後,とかいう曜日と整数の間の混合演算をやっている。いや,そう思って内省するに,「2月の3ヶ月後」というときは足し算で5という答えをだすが,「月曜の3日後」というときは「月,火,水,木」と指折り数えている。で,後者の場合「計算している」という感覚が希薄だという人が多いのではなかろうか? 月曜が0に対応するか,1に対応するか,なんて考えてみたことないでしょう?

ということで,今回は規定文字数に達した(?)ので,続きは次回に。いつになりますやら…。

2011年4月9日土曜日

想定外

今回の津波で原発がやられたのは想定外だという話をよくきく。それに対して,いや,過去の地震データなどからわかってたはずだ,という声もある。あるいは,こんなに想定外の地震でも,福島第一以外の原発はちゃんともちこたえ,第一だってただちに大惨事にはならずに,現時点(2011年4月9日)では予断はゆるさないとはいえ,収束の方向に向かっているのだから,日本の原発はきわめて安全に設計されてる,という説がある。それに対して,でも大惨事一歩手前までいったわけだし,福島第一原発は老朽化していて,いろいろと穴があるのを放置していたから,かなり脆弱だったことはわかっていたはず,という声もある。

で,たいていの場合,前者を原発推進派が言い,後者を反原発派が言うのだが,これって逆じゃないか? 現在起こっている悲劇に対して,その責任がどこにあるのか,という後ろ向きの議論(と言っても大切な議論だが)ではなく,将来われわれは原発を使い続けるべきか,という議論をするとき,現在起きていることが想定外であったほうが危険なことになる。

もし,電力会社をはじめとする推進派が腹黒いやつらで,「いまの想定よりもちょっとでかい津波がくるかもしれないが,まあ,多分そんなことは起こらないだろうし,起こったとしても原発のある福島とか福井の田舎が被害にあうだけで,大都会にいる俺達はこまらない」とか考えて現状をまねいたとしたのなら,まだ将来改善の余地がある。だって,そんな腹黒い奴らを駆逐して,考えられるすべてに対策をとればいいわけだから。ところが,そうではなくて,善意で安全を考え,考えられるすべての対策をしていたにもかかわらず,こんなことになったのなら,話は深刻だ。そうだとすれば,今回の悲劇は原理的にさけられなかったわけで,今後原発推進を再開したとしても,また想定外のことが起こるかもしれない。

さらに,「福島第一原発は老朽化していて,ちとあぶないと思っていたんだけど,新しく建てるのは金もかかるし,住民の反対もあるし,まあしばらくは,このまま使おう」というのだったら,改善の余地はあるが,「古いとはいえ,日本のもてる安全技術のすべてを注ぎこんで万全を期してました」というのだったら,それ以上は手の打ちようがないので,また今回のようなことが起こる可能性がある。

いや,今回の事故を教訓に,完璧な津波対策をほどこします,と言っても「想定外」のことが津波だけとは限らない。文字通り「想定外」なのだから,なにが起こるかは予測できないわけだ。すべての悪い可能性を考えていたらなにもできない,という意見もあるが,そしてそれには同意するが,「なにもできない」というのと「なにもできないのは困るから,なにをしてもいい」というのは話がちがう。つまり,そこそこ危険ではあるが,なにか起きたときの悲劇がある程度限定的ならば,あえてリスクを負うというチョイスもあるが,結果が壊滅的だとやっぱやめといたほがいい,ということにならないだろうか。

で,ナカムラは原発の場合「あえてリスクを負う」というには,あまりに危険すぎないか,と思うわけである。たとえば,ナカムラの住む福井で原発事故が起きて,今回よりもさらにひどい最悪の事態になって,高濃度の汚染物質が飛散によって琵琶湖が汚染された場合,関西地方は捨てなくてはならない。いや,実はそういう最悪のことが起きても放射線の量は限定的で,「ただちに健康に影響がでるわけではない」というのは事実かもしれない(事実でないかもしれない,ナカムラの現在の知識では判断しかねる)が,今回のように,あきらかに福島の安全な地域から来たひとに対しても「福島県民お断り」みたいなうごきがあるということは,社会的影響が甚大であることを意味する。「それは科学リテラシーの低いやつらがパニックになってるだけだ」というのは簡単だが,その言葉にはなんの実効性もない。琵琶湖の水がなんらかの形で深刻に汚染された場合は,現実としてそういうパニックが起きて,社会的影響から関西はアウトだろう。そのときに「それはパニックだ」と言ってもなんの意味もない。

というわけで,ナカムラは原発は将来的には廃止すべきだと思っているが,だからといって太陽光や風力による発電で原発の損失が完全にまかなえるか,というのには疑問をもっている。これについて議論すると長くなるので別の機会にするが,原発をなくする,という判断は供給電力量が減って,日本の経済は沈滞し,夏はくそ暑くても冷房なし,という覚悟がいると思う。「原発なんてなくても,代替エネルギーで十分ですよ」というのは「原発は絶対安全ですよ」というのと同じく悪質なプロパガンダなんじゃないか。

それでも原発をなくすべきか,というのは意見のわかれるところで,たとえばいま,まさに潰れそうな中小企業の社長さんや契約社員にとっては,経済の沈滞は死活問題で「明日生きるために今日死ねというのか」ということになるかもしれない。だから,この問題はなにがなんでも原発が善とか悪とかいうわけでなく,メリットとデメリットを勘案して合意形成していくべきものだと思う。そして,ナカムラの「キミはどう思うの?」ときかれたときの答えは,「極端な影響がでないように徐々に原発への依存度を減らしていきながら,将来は全面廃止すべき」である。

2011年4月6日水曜日

VAIO-X+ubuntu 10.10

VAIO-Xにubuntuの10.10を入れました。トラブルシューティングの備忘録。ほかのひとの情報提供が参考になったので,これを公開するとちょっとだけ恩返しになるかも。質問があったらコメント欄にください。ただし,あまり内容を理解してないので,役に立たない可能性大。あとレスポンス悪いです。
  • usbディスクからインストールしたが,unetbootinではいきなり10.10をインストールできなかったので,まず10.4を入れてから10.10にアップグレード。
  • skypeで内蔵マイクが使えなかった=内蔵マイクの入力をサウンドモジュールalsaが拾ってなかった。
    • alsaのソース(1.0.24)を拾ってきてコンパイル。(たとえば,ここ参照。詳しくはソースについてくるINSTALLファイルを。)
    • alsa-driverのコンパイルのときに --with-oss=noオプションをつけないと,できたモジュールがロードされない。(新しいバージョンでossサポートやめたとかいう書いてあるページがあったけど,今見つからない…)
    • --with-oss=noをつけないと以下の症状がでる。
      ・/proc/asoundができない。
      ・dmesgでsnd関連モジュールがみつからないと文句をいわれる。
  • サスペンドはここの処方箋でできるようになる。でもいまいち不安定かも。
  • あとは大したトラブルなく,内蔵カメラからSDカードドライブまで問題なく使えてます。起動が速い!



2011/4/25 追記
  • 直接OSには関係ないけど,Lyxでpxfontsとかtxfontsを使うと,積分記号が化けます。これはLyxでesint.styを使うのがデフォルトになっていて,esint.styとpxfontsの相性がわるいからだそうです。文章の設定にある数式オプションでesintをはずすと解決します。

2011年3月28日月曜日

「『相対性理論はやはり間違っていた!』はやはり間違っていた!」は間違っていたのか?

なんかトゲアリトゲナシトゲトゲみたいな展開になってきたが,実はかなり以前に前のblogに「相対性理論はやはり間違っていた!」という記事を書いて,ちょっとしたパラドックスを紹介した。で,このパラドックスの謎解きを「『相対性理論はやはり間違っていた!』はやはり間違っていた!」という記事に書いたのであるが,最近,その記事に「みょ〜ん」という方がコメントをしていただいていた。しかし,熱しやすく冷めやすいナカムラは,古いblogのほうをチェックしていなかったので,コメントをそのまま放置してしまっていた。みょ〜んさん,すみません。

で,最近になってこちらのblogにコメントをいただいたので,やっと気づいたわけだが,なかなか含蓄の深いご指摘であるので,みなさんに紹介しようと思って新しく記事を書く次第である。みょ〜んさんの指摘についてはこちらの四つめ以降のコメントを読んでください。

で,ナカムラが理解したところによると,「こいつは『加速』という概念がローレンツ不変であると勘違いしとるが,棒の総エネルギー・運動量から速度を計算すると,ある系では加速しており,別の系では加速してないというのもありうるのではないか?」ということだと思う。これは,まことにもってその通りで,ある意味ではこのパラドックスの本質をついていると思う。駄菓子菓子,ナカムラはそのことについて勘違いしてるわけではなくて,むしろそれが本質であることは重々承知しております。

みょ〜んさんの3月25日のコメントにある「みょ〜んの2質点モデル」では,同時刻での二つの質点のエネルギー・運動量の和が変化したことを「加速した」と判断していると思うが,系が違うと「同時刻」が違ってくるので,加速されたかどうかが違ってくるのは当然であろう。それに対して,ナカムラのもとの話の棒の場合,完全な剛体はないにしても,棒の変形が十分無視できるくらい小さい状況は考えることができるわけで,そうすると棒の速度は棒上のどこか一点(たとえば左端)とかの運動で直接的に決まり,そうすると加速されたかどうかは系によらずに決まる。

思うに,このパラドックスの本質は「空間的にはなれた場所での示量的な量の和は,系によって和をとる時刻が違う」ということにあるのであって,それを「棒は加速されていないのにエネルギー・運動量が変化している」と言うか「実は系によっては加速されている」と言うかは加速をどう定義するかだろう。で,普通は棒の加速というと,どこか棒上の一点の位置の時間変化から計算するんだと思うんだけど,いかがですか,みょ〜んさんほかみなさま?

ちなみに,実は,この「系によって和をとる時刻が違う」という問題は,相対論ができてからすぐに指摘されているにもかかわらず,いまだにいろいろなところで勘違いされている。たとえば,ランダウの「場の古典論」の質点系の総角運動量の式なんか間違っていると記憶する(…のだが,いま,手元にないのでひょっとしたら記憶違いかも)。

ともかく,みょ〜んさんはコメントありがとうございました。長い間放置して失礼しました。

2011年3月16日水曜日

邪悪

日本ホメオパシー医学協会なる団体が,ホメオパシーで震災の被災者を助けよう,などと言っている。ホメオパシーってなに,という方は検索していただくとわかると思うが,まあ,ナカムラのなかでは最低な新興宗教と同類に認識されている。でも,twitterなどで「ホメオパシーの連中が震災に便乗して布教活動を行うなんて卑劣だ」というような意見をよく見かけるのだが,これってちょっとちがうんじゃないか?

はじめに言っておくが,ナカムラは結果としてホメオパシーの布教活動は最低だと思うし,彼らに対していかなる肯定的な感情はもっていない。しかし,彼らが,たとえば震災便乗の義援金詐欺のように,唾棄すべきおぞましい悪意でホメオパシーをすすめているというのは(多くの場合)違うのではなかろうか。彼らの多くは本当にホメオパシーが有効だと信じているわけで,そうだとすると,その有効な処方で困っている人を助けよう,という動機は立派なものだ。まあ,「地獄への道は善意で敷き詰められている」というように,動機が不純でないほうが,かえって手に負えないというのはあるが。

実はホメオパシーは端的な例なのでここでふれたわけだが,いま,気になるのは原発推進派に対する同じような批判である。ナカムラは原発については昔から懐疑的で,いま起こっていることを見るとその懐疑はあたっていたと思うが,だからといって推進派だったひとたちが,みな邪悪な心の持ち主かというと,そうではなかろう。

原発建設を推進した人のなかで,「いつか地震+原発で日本を滅ぼしてやる!」というのは,多分いないだろう。もうちょっとマイルドに「ひょっとしたら大災害になるかもしれんが,今,金がもうかるからいいや」というのは結構いそうだ。さらに「どうせ原発があるのは福島とか福井の田舎なので,俺には関係ないし」というのならもっと増えるかもしれない。しかし,原発関係者の多くは本当に原発が安全で,しかも将来必要なエネルギーを供給してくれると善意で信じていたことは間違いない。たとえば,このニュースにある「使命感を持っていく」という方には本当に頭が下がる思いだが,この方も原発の安全性を信じていたことが文面からみてとれる。

現場のひとたちは純粋で上層部が腹黒い,という意見もあり,それはちょっとステレオタイプだけど,ある程度はあたっているかもしれない。しかし,上層部でも100%邪悪なやつなんて,そんなにいないんではないか? もちろん,善意から始めたとしても邪悪な結果をまねいたとしたら責任をとらなければならないし,非難も受けて当然である,それが人の上にたつということだから。ただ,それをダース・ベイダーとかショッカーのような悪意のカタマリだと思ってしまうと見失うものがある気がする。ダース・ベイダーだって最後はいいやつだったわけだし。

原発は結果論としては危険だったわけで,今後,多分廃止の方向に動いていくだろうが,その議論の中でも,原発推進が邪悪な心のもとに行われていたことを前提にすると,話を見誤ってしまうような気がする。誤解しないでいただきたいが、「原発をつくった人は善意でやったのだから、責任を追求してはかわいそう」などという情緒的なことを言っているわけではない。責任を追求すべきか否かのような議論をするときに、事実としておさえておくべきものを指摘しているわけである。



  • 日付をみていただくとわかると思いますが,この記事は北陸太平洋大地震の直後に書きました。数年後に読まれる方はその背景をご想像ください。
  • しかし,ホメオパシー協会のページをみると,やっぱムカつくな。

2011年3月7日月曜日

二十代なかばの浪人生だったりした日には

数年前,ナカムラの友人が勤める大学の入試でカンニング事件があったという話をきいた。試験が終わって英語を採点しているときに,ある答案用紙の中に,複数の問題にわたって,数枚前の答案とほぼ同じ間違いが含まれていることに採点者が気づいたのだ。そこで,該当する受験者の席順をしらべてみると,斜め前と後ろの関係になっていて,後ろの受験者がのぞき見をした可能性がかなり大きいことがわかった。さらに調べてみると英語以外の答案でも,同じことが書かれている箇所が多数発見され,不正行為の疑いが濃厚である。

しかし,これは本当に困ったことである。たとえばカンニングペーパーを盗み見ている現場をおさえる,とかというのと違い,答案が似通っているというだけでは,不正行為のハードエビデンスにはならない。「偶然に答えが一致しただけだ」と強弁されれば反論できないのである。ことは大学の入学試験で,ある意味で人生がかかっているわけだから,「極めて疑わしい」というだけで入学させないというわけにはいかない,本当に偶然だった場合はえらいことだ。

で,その大学は結局どうしたかというと,とりあえず採点を終えて合否判定までもっていったそうだ。そうすると,見たほうも見られたほうも,きわめて出来がわるく,合格水準のはるか下だったので,関係者一同胸をなでおろし,「見るんだったら,もっと賢いやつにすればいいのに」などと冗談をいって一見落着となった。

で,なにがいいたいかというと,先日の京大入試カンニング事件で,茂木健一郎という脳科学者(この人を「科学者」と呼ぶにはかなり抵抗があるけど)が,「報道された複数の大学を共通して受験している学生を、大学間で情報を共有して割り出せば、少数の候補を特定できたはずである。」などと書いている件についてである。ほかでも同様の意見を何件かみかけたが,茂木氏は有名人なので代表していただこう,twitterではもっと過激だったそうだし。少数の候補を特定して,その先どうするんですか? 合格発表までの極めて短い間に100%確実な証拠がでてくる可能性は極めて低い。

 さらに,当初は単独犯ではなくて大規模な組織の仕業であった可能性も否定できなかったわけだから,数十人規模の受験生が外部から解答を入手して,それぞれの学力によって部分的に利用していたりすると,解答を吟味するだけで,不正を過不足なく処分するのは全く不可能である。いや,全部見のがしてしまえ,という過激な意見もあるが,それを言い出したら試験監督など全くなしで試験をやれ,ということにならないだろうか? そのおかげで落第する,ひょっとしたら数十人にものぼったかもしれない受験生のことを考えてるんだろうか,と思ってしまう。そういう悲劇の可能性があったわけだから,それを防ぐために大学側がとった対応は,この浪人生にとっては不幸な結果を生んだとはいえ,問題発覚時点でするべき必要不可欠なものだったと,ナカムラは思うわけである。

ところで,この問題の法的な側面は専門家の間でも意見の相違があるそうだが,この解説は参考になりました。この問題では,大学の対応については意見がわかれるが,この解説の最後にもあるように,衆目の一致するところは,予備校や出身高校まで押しかけ,恋愛履歴まで報道してしまうというマスコミの対応への批判だろう。唯一の救いは,本人が未成年だったので名前や顔写真が報道されていないことだが,もし,これが数年落第した二十代なかばの浪人生だったりしたら,顔写真つきでおもしろおかしく報道するんだろうなあ,などと思うと恐ろしくなる。などと思っていると,ちょっと救いになるような報道もみかけた。罪を憎んで人を憎まず。

2011年3月3日木曜日

電通がフェイスブックと提携したな。これから何が起こるか、5個書いておくぞ。でもあんまり真に受けるなよ

電通がフェイスブックと提携したというblog記事を読んで,大型科学プロジェクトを連想した。

【1】本末転倒なトンチンカンな提案がまかり通る
 「何が科学上の課題か」ということから必要な計画を作るのではなく、「大きなプロジェクトをとにかくやる」というものになる。いやぁ、オレも最近学会へ行くと「プロジェクトしましょう!」みたいな話ばっかでかなり食傷気味。

【2】プロジェクトの運営に疲れる人が続出する
実際問題として、研究所が担当者をつけて、プロジェクトを運営したり、データ処理をしたりするのって相当面倒くさいわけよ。

【3】成果が出なくてプロジェクトマネージャが心を痛める
論文の数がどんだけ増えるか? プロジェクトをやったことにより、どんだけ学会発表が増えたか? そういった「数字」ってものは、厳しいものをプロジェクトマネージャに突き付けるわけですよ。

【4】「続きは次のプロジェクトで」が増える
学会とか講演会とかで「続きは次のプロジェクトで」みたいな話になるだろう。でもよぉ、オレがいつも語るけど、一般市民って学会のローカルルールなんてどうでもいいと思ってるのよ。

【5】学会で同じような研究成果と売り文句ばかり聞くこととなり、「その話聞いたこと何度もあるんだけどなぁ…、キミ、そこのパート、削っても大丈夫だよ…」と内心思うことが多くなる

「*****!」
「**********!」
「*******!********!」

(さすがに,ここに具体例を書く勇気はない...。)

【6】終わりに
まぁ、オレはこのプロジェクトが効果あり! と自信を持って文科省に提案する根拠がないので、提案はしないけど、有名大学を筆頭に科学研究界隈の皆さん、ぜひ、成功事例を作って論文をガンガン書いて、科学の進歩のお手伝い、してくださいね!!!!!!

期待しています!

2011年2月25日金曜日

月も火星もはるかに越えて(2)

前回「月も火星もはるかに越えて」というタイトルにしたら,一部でとても食いつきが良かったが,これは実はキャプテンウルトラという昔のSFテレビ番組の主題歌の出だしである。この歌詞にあるように,この手のSFでは,地球を宇宙船で出発すると,あっというまに「月も火星も」越えてしまって,宇宙人のいる別の惑星系まで飛んでいくのが普通である。

しかし,実際に月や火星,ましてやバンデル星人のいる遠い宇宙にそんなに簡単に行けるのだろうか? 前回,宇宙は人類のフロンティア,みたいな話を書いたが,今回はそのフロンティアとしての宇宙のどの辺まで人類は行けるのか,ということを考えてみよう。実は現実は結構残念な状況である。

まず,「月も火星も」といっしょくたにするが,この二者はかなり距離が違う。地球から月までは約40万km,それに対して火星までは軌道の関係で地球との距離が一定ではないが,ざくっと言って数億kmの距離がある。つまり3桁もちがうのだ。月までの距離を,福井県立大学からサニーサイドまでと例えると,火星は東京までの距離になる。うちの大学の関係者以外は「サニーサイドってなに?」と思うかもしれないが,それは福井県立大学の近くの喫茶店です。福井から東京までの距離を地球から火星にたとえると,月ぐらいのところにあります。

ということで,人類はすでに月までは行ってるわけだが,これは数日で行って帰ってこれた。サニーサイドに昼飯を食べにいくようなものである,ちょっと違うが。しかし,火星までになると最短で2年ちかくかかるわけで,現在,火星旅行に必要な520日間閉鎖された宇宙船のようなにとじこめられたら,人間はどうなるだろうという実験がおこなわれていたりする。シュピーゲル号(キャプテンウルトラの宇宙船です)のように,あっというまに「はるかに越えて」というわけにはいかない。

ちなみに,アメリカやロシアで火星旅行の計画がなされてると聞くと,荒涼たる砂漠のような火星の大地をふみしめる宇宙飛行士というイメージを想像するが,たぶん,みなさんが生きているうちにそういう映像をみることはない。火星に一度着陸してしまうと,また宇宙空間にもどるために,大きな打ち上げ用ロケットが必要になるからだ。月の場合は重力が弱いので,アポロの月着陸船程度のロケットで帰ってこれたが,火星の場合は,地球より少し小さいとはいえ,れっきとした惑星なので,重力をふりきるには,莫大なエネルギーが必要なのである。したがって,今計画されている火星有人探査は周回軌道をまわるだけ,つまり宇宙ステーションから地球をみるように,火星をながめて帰ってくるだけである。

まあ,それでも往復で520日なら,なんとか我慢して火星まで行ってこようという気になるかもしれない。しかし,すぐおとなりの惑星の火星ですらそんなにかかるのだったら,他の惑星に行くにはどれくらいかかるのだろうか? たとえば,土星にはカッシーニというアメリカの無人探査機が行っているが,これは到着までに8年かかっている。片道8年ということは往復で16年,宇宙船の居住スペースがどれくらいかは不定要素があるが,いまの国際宇宙ステーションとくらべてそれほど違わないと考えられるだろう,そのような閉鎖空間で16年暮らさなくてはならないのだ。

太陽系のほかの惑星に行くだけで人生の何分の一かの期間,恋も娯楽もあきらめて閉鎖空間にいなくてはならないというのは,それだけで憂鬱だが,しかし,そうして行ける太陽系の惑星には高等生物がいないことは,ほぼ確実だ。では,バンデル星人のような宇宙人に会いに太陽系外の星に行くのはどれくらいかかるのだろうか? 実は太陽にもっとも近い恒星は約4光年先にあるが,これは火星までの距離の数十万倍になる。つまり,火星までの距離を福井-東京間にたとえても,「月をはるかに越えて」という距離になってしまうのだ。太陽系の惑星間を数年から数十年で移動できる現在の技術だと,いくら頑張っても数万年かかってしまう。

しかも,数万年かかるのは,4光年先の太陽のおとなりの恒星であり,われわれのいる天の川銀河(直径8〜10万光年)の中では,ごくごく近所であることを考えると,もう気が遠くなる。さらに,おとなりの銀河であるアンドロメダ銀河が約230万光年先だったりするわけで,宇宙ってのはひろいなあ。いや,そのアンドロメダだって,われわれの知っている宇宙のなかでは,ごくごく近所で,現在観測されているもっとも遠い銀河は100億光年以上先にある。で,われわれ地球人が現実的に行けるのは,そのひろい宇宙のごく一部,たぶん,一生懸命がんばって土星あたりがいいところじゃなかろうか,と思うわけである。「月も火星もはるかに越えて」宇宙にとびだしても,行けるところは,たかだか知れてるわけだ。

2011年2月24日木曜日

twitterに書こうかと思ったら,ちと長くなったのでこちらに。

あることが積極的に信じられないというのは,それと反対の主張を積極的に支持する根拠にはならない。たとえば,キリスト教原理主義の創造論者がよく使うレトリックに,「ダーウィンの進化論では,これこれの事実が説明できない,だから,生物は神が造りたもうた」というのがある。

「CO2地球温暖化説いろいろと不備がある,だから地球温暖化はしていない」というのは,これと同様だと思う。

月も火星もはるかに超えて(1)。

少しまえになるが,日本人宇宙飛行士の若田さんが,国際宇宙ステーション(以下ISSと略)の船長になるというニュースがあった。英語の「commander」を多くの日本メディアは「船長」と訳していたが,「ステーション」の長だったら「駅長」ではなかろうか,というボケは別として,めでたいニュースには違いない。しかし,宇宙科学の研究者の多くと同様,ナカムラはこういうニュースを見ると釈然としないものがある。理由は簡単,宇宙ステーションは投入したコストのわりに,あまりにしょぼい成果しかあげてないからだ。

くわしいことは,以前にラジオでしゃべったことがあるので,お暇なかたはそれを聞いていただくか,あるいは宇宙ジャーナリストの松浦氏の解説を読んでいただくとして,端的にいうと,ISSに限らず宇宙ステーションという枠組みは科学・技術の研究には極めて効率的が悪い,ということだ。ISSのニュースといえば,日本人クルーが琴の演奏をしましたとか,紙飛行機を飛ばしましたとかいう「ほのぼのニュース」ばっかりで,こんな大発見がありましたとか,すばらしい素材の製法がわかりましたとかいうのは聞いたことがないでしょう? やってる実験の中には,たとえばこんなものもあって,これがわざわざ何千億円もかけた実験施設でやるべきことだろうか?

まあ,これにはいろいろと政治的バックグラウンドなどがあって,ネットで検索するといろいろと内情がわかってくるわけだが,われわれ研究者にとっていちばん困るのは,ただでさえ少ない宇宙開発予算がほぼ無駄(と言ってよいと思う)に使われるということである。

ただ,こういう考えは科学至上主義という批判もある。たとえば,南極点やエベレスト頂上に人類が立つというのは,とくに科学的知識や実際の利益をもたらすものではないが, 人類のフロンティアへの挑戦として意味があるというのである。ナカムラは登山もやるので,基本的にはこの考えには賛同できるが,しかし,現在の国際宇宙ステーションがフロンティアかといういと,はなはだ疑問である。

ニュースなどでISSにいる宇宙飛行士の映像を見ると,いかにも遠い宇宙空間という感じがするが,実はISSが飛んでいるのは地表から上空400kmほどのところである。これは東京-福井間よりちょっと遠い,というくらいの距離でしかない。「え,福井ってどこ?」だって? すみません,ナカムラの住んでる福井は島根などと知名度最低を争う県なもので(福島と間違えんなよ)。まあ,東京-大阪間くらいと思ってください。地球の直径が1万3000kmであることを考えると,自分のうちの玄関先くらいの場所と思ってよかろう。しかも,そのあたりの宇宙空間に(ちょっと低いけど)人類がはじめて行ったのは1961年のガガーリンなわけで,もう半世紀も前の話だ。

ということで,ISSはやっぱりイマイチ,という話になるわけだが,では,フロンティアとしてもっと遠い宇宙に行くというのはどうだろうか?というのが次回の話題になります。などといいながら,前書いた掛け算の話題も「次回」をまだ書いてないわけだが,気長にまっていてください。


追記
つづき書きました。

2011年2月14日月曜日

業務連絡:コメント投稿

デフォルトで匿名でコメントが投稿できない設定になってましたが,今,変えました。だれでもコメントしてもらえるはずです。指摘してくれたna氏に感謝。

バーゼル問題なんて証明したくなかったんだからねっ!

先週のおわりに,とある計算をしていて



という級数の値を求める必要がでてきた。これが奇数の和じゃなくて整数の和だったらバーゼル問題という有名な問題で,かの有名なレオンハルト・オイラーによってπ2/6になることが示されている(実は江戸時代の和算家の建部賢弘がオイラーより先に解いている)。で,それをいじったらなんとかなるかな,としばらく考えていたのだがよくわからん,困ったときの他力本願というのでtwitterに
奇数の自乗の逆数の和 (1+ 1/3^2+ 1/5^2 + ...) って何に収束するか知ってる人いません? バーゼル問題のバリエーションだから,その証明をちょっといじったらなんとかなるのかな?
と,投稿をした。その後の展開はtogetterにまとめてあるのでそちらを参考にしていただくとして(togetterはじめて使ったぜ), 驚くべきは30分以内に二人の方から解答をいただいたということである(ナカムラは結構考えたけどわからなかったのに...)。ちなみに@MachiParuさんの方は最初は値が違っていたが,このような問題では解法が重要で,それさえわかれば値はなんとでもなるものである。で,まとめにもあるように,その晩に金沢のジャズ屋で美人ボーカルの歌を聴いているうちに,これはひょっとしてバーゼル問題の証明になってるのではなかろうか,と思い始めて,日曜にやってみたら証明できました。これ(pdf)。

こういうのって,ちょっと嬉しくないですか?だって前々世紀のこととはいえ,有名な数学者が頭を悩ました問題の別証明を思いついたことになるわけでしょう,まあ,証明の最後は,ちょっとひとの手をかりたけど。で,まとめのなかほどにある「かわゆい女の子にやさしくされる」状態だったわけだが,ネットで調べてみると,「ちょっとひとの手をかりたけど」という部分こそが「一番ひらめきの要るところだったりします」だそうな。Life is a bitch, sometimes... しかし,それを30分以内に思いついたお二人は真におそるべし。ところで,この証明はここ(pdf)にある14の解法のうちの4つめのやつのバリエーションで,オリジナリティは全然ないみたいです。

2011年2月4日金曜日

かけざん(1): あえて火中の地雷を踏む?

さて,再開第一弾。blogをしばらく,というか長い間休んでたのは,もう面倒くさくなったからではないか,と思われる方もいらっしゃるだろうが,その通りです。しかし,毎日生きていると,「ああ,これなんかblogに書くと面白そうな話題だな」ということがひと月に何回かはあって,でも「最近書いてないし,また再開しても続かないだろうし」などと思っているうちにずるずると日が過ぎていったわけであるが,この心理は常連で足しげく通っていた店にしばらく行かなくなると,行きづらくなるのに似ているかもしれない。で,今回再開して,そいういう話題のひとつから始めようと思う。

少し前から,twitter等で小学校で掛け算を教えるときに順序を気にすべきか,という論争が続いている。聞くところによると,1970代からある古い話題そうだ。詳しくは「掛け算+順序」などで検索していただくとして,しかし,そうしてヒットする文献は激しく膨大なので,超要約すると,掛け算はどっちをさきに掛けても同じ演算なので,順序を気にするべからずという可換陣営と,いやいや掛けられる数の対応するものを見ると,質が違うものなので,気安く掛け算の順序を換えるべからず,という非可換陣営の論争である。いや,長い論争を全部読んだわけではないので(というか,ごく一部しかみてない),ナカムラは全貌を把握しているわけではない。議論の本質はそんなことじゃない,というむきもあるかもしれないが,以下ではこの論争のそういう側面について考える。

これは,なかなか興味深い論争だと思う。たとえば,911陰謀説とか,ホメオパシー論争とかのように,片一方がまったくのパッパラパーで相手の言うことに聞く耳持たぬ,というのとは違って,双方とも聡明で理性的なひとたちが,延々と論争をしていて,それでも決着がつかないという状況ではかろうか。ナカムラはどちらかというと可換派の肩をもちたいが,非可換派の主張もよく考えられていて,たとえば,こういう先生に習ったなら,たとえ非可換派の主張が間違えていたとしても,生徒達は勉強になるだろうな,とも思う。

なので,ナカムラは,この長い論争にあえて参戦して火中の地雷を踏む気はない。以下では,この掛け算論争の構造をみていくことで,日頃ナカムラが思っている数と現実の対応関係を考えてみようというのである。

もともと数というのは,ある演算規則 -- 具体的には加減乗除 -- を満たす抽象的概念として,人間の頭のなかにあり,それを現実問題にうまく対応させると便利な道具として使えるというものだ,とナカムラは考える(そうでない立場もあるそうな)。1 + 1 = 2,2 × 3 = 6というような四則演算の規則を決めておいて,たとえば200mlの水と350mlの水がべつべつの容器に入っているとき,ひとつの容器にまとめてみなくても,あわせて550mlあることが計算によってわかる。 つまり,「ひとつの容器にまとめる」という操作を,足し算という演算におきかえると,現実を予測できるわけである。このへんの事情は以前に書いたことがあるが,むやみに長いわりには情報量が少ないので,娯楽として暇なかた限定でお読みください。

この現実と演算の対応は自明ではなく,そのつど現実を観察して決めてやらなくてはならない。たとえば,さきほどの体積の場合は足し算は有効だが,温度の場合はそうはいかない。40℃の湯と20℃の水をまぜても,60℃にはならないでしょ? また,現実と演算がうまく対応している場合でも,その対応の仕方はひととおりではなく,いろいろな状況が考えられる。で,上でのべた演算順序論争は,このあたりの事情を明確にするいい題材だと思う。

思うに掛け算というものは数学的演算としての文句なく可換だが,それを適用する現実の「可換性」とは別に考えなくてはならないのではなかろうか。はじめに,多分両陣営のどちらも合意するであろう,足し算の可換性から考えよう。つまり 3 + 2 を 2 + 3 と書いても文句をいう人は少なかろう(でも,以下にみるようにこれも場合によっては問題あり)。数学的演算としては 3 + 2 = 2 + 3 で,これはまったく問題ない。

で,たとえばこれを適用できる現実の問題として,「部屋に男の子が3人と女の子が2人います。合計で何人でしょう?」というような例が考えられる。「当然,男が先になるべきだ」というようなハイパーセクシストでない限り,どちらを先にしても文句は出まい。これは,あつかっているのが人間の数であり,男も女も(ハイパーセクシスト以外には)同質のものと考えられるからだ。この,「同質のものだからどっちが先でもいいじゃん」という状況を,果たして可換という数学用語で表現していいのか,という疑問は残る。そこで,ここではこの現実の可換性については「可換」というように括弧つきで表記しよう。

それに対して,問題になっているのは掛け算の 2 x 3 = 3 x 2 である。たとえば,「耳がふたつのうさぎが3羽いたら耳はいくつか?」という問題で,非可換陣営は数学的演算としては可換だが,実際問題として,うさぎの耳とうさぎの数は別物なので,小学生に教えるには,その違いをはっきりさせておかなくては,と主張しているのであろう。これには一理あるような気もするが,ちと無理もあるような気もする。たとえば,よく指摘されているように,うさぎさんの耳ではなくて「縦 3cm 横 2cm の長方形の面積は?」みたいな問題だと,空間が回転に対して対称である限り,どちらを先にしても問題なかろう。つまり現実も「可換」なわけだ。

しかし足し算だって,「非可換」な現実を考えることができる。たとえば「3月の2ヶ月後は何月でしょう?」という問題である。この場合,3 と 2 に対応する現実はあきらかに異質なものだ。英語にしてみると前者は March,後者は two months になることからも明白だろう。

そう考えると,掛け算の「非可換性」は掛け算という数学的演算そのものの性質ではなく,それを応用する現実によるものであることがわかる。足し算も掛け算も,対応する現実は「可換」だったり「非可換」だったりするのだが,足し算だと「可換」な場合が,掛け算だと「非可換」な場合が圧倒的に多いので,なんとなく掛け算は順序をちゃんと考えなくちゃね,みたいな話になるのではなかろうか。となると,非可換陣営はちと旗色悪い。しかし,もちろん,具体的にうさぎの問題を解いてる時は,数式も非可換にすべきだ,という主張はできる。でも,その場合は上で考えたようなことを延々と説明せねばならぬので,小学生に教えるときはどうかなあ,とは思う。

そこで,ここからが本題。われわれは「掛け算」というと,ただ一種類に決まる操作のように考えがちだが,実は現実問題への対応としてはいく種類もあるものではなかろうか? これは掛け算に限らず,足し算だとか数そのものだとか,数学であつかういろいろな要素が実は微妙に違う現実問題をあつかう微妙に違う構造なのだが,普通に使っている数の体系があまりにうまく種々の現実に適用できるため,それに気がついてないのではないかと思われる。

というあたりで,ちと長くなりすぎたので,続きは次回へ。次回の文章はまだ書いてないので,いつになるかわからんが,のんびりとお待ちください。

2011年2月3日木曜日

blog再開?

以前,「極端大仏率Returns」というblogを書いていたのだが,一昨年のおわりあたりから,ほとんど放置していた。コメントくれたみなさん,ごめんなさい。

ということで,ひさびさに再開しようかと思ったのだが,時代は変わって自前のサーバーに記事をためておくのは「in」じゃないそうで,googleのサービスを利用してみました。まだよくわかっとらんので整備に時間がかかりそうですが,よろしく。